慢性痛のサイエンス①

慢性痛の脳内機構は、ノースウエタン大学、オックスフォード大学のグループの研究を中心に推進されてきた。
fMRIやPETを用いた脳画像解析から,慢性腰痛,線維筋痛症などの慢性痛の脳内では,脳構造の変容と機能破綻が起きていることがわかった.
一口で言えば「慢性痛は脳だ」という結論になる。


私達の祖先は恐竜時代をネズミのような小動物として過ごし,下等哺乳類から霊長類へ進化したのは6500万年くらい前,チンパンジーの系統から人類へ枝分かれしたのは約700万年前と言われる,そして猿人,原人,旧人,新人と進化して、20万年前に現生人類ホモ・サピエンスが誕生したとされている。


ヒト脳には,したがって系統発生上の階層がみられる.最下層に「生存脳」と呼ばれる原始皮質があって生命維持機能を担い,その上に構築された「情動脳」と呼ばれる古皮質が,原始的な本能行動、種の保存,快/不快情動を担っている.ホモ・サピエンスになって著しく発達した新皮質は最上層にあり,思考,創造,想像,言語,社会的交流など,高度な精神活動を担っている.そのため,「思考脳」とも呼ばれている。
今や上空10kmの高さには旅客機が行き交い,400km には宇宙飛行士を擁する国際宇宙ステーションがある.現代人は高度に進化した新皮質を駆使して宇宙にも進出したが,その生命の根源的維持は,皮質下で活動する「生存脳」や「情動脳」から,無数の影響を受けて支えられている.

創業何億年の老舗旅館に、高層新館や別館が美々しく増改築されているが,内部では昔ながらの丁稚、手
代,番頭さんがこま鼠のように働いて,一瞬のミスもなく老舗を維持している,と例えたらよいだろうか。
痛み信号が届くと,高層階にある大脳皮質感覚野は精緻な局在性を発揮して,どこにどのような痛みがある,と「感覚」を検出する.しかし「旧館」の古皮質にとって,痛み信号は「命の一大事を知らせる緊急ベル」なのである。
苛酷な自然環境で肉食獣に怯えた荒野そのままに,古皮質は負(不快)情動を掻き立て,本能的な恐怖や不安感を加味して記憶回路に送る。生命維持のうえで,痛みは単なる「感覚」ではなく「苦」なのである.


激痛を経験した人が,「痛みには奈落の底に引きずり込むような力があって,理性を超えた業苦が心を屈服させる」と語っているが,これはまさしく脳内活動を反映した言であろう。古皮質に異常興奮が起きると,新皮質による理性はこの暴走を抑制できないのである。
急性痛の段階では大脳皮質感覚野に賦活がみられるのに対し,慢性痛に移行した後では,大脳皮質感覚野に賦活はない。
本来、痛みを感じる大脳皮質感覚野ではなく古皮質に賦活がみられるのみである,しかし依然として「痛い」と訴えるのである。
この種の痛みには当然,消炎鎮痛薬や神経ブロックは効を奏しない。


北戦争時代のMitchell医師は、慢性痛の段階になると不安傾向や易怒性わり,人が変わったように臆病になると,優れた観察眼をもって指摘していた。
「痛みの謎」と言われてきた慢性痛の謎は,脳内回路網の変容に発していたのである.
このような重要な知見が得られたことに基づいて,慢性痛の治療には薬物療法、認知行動療法,マインドフルネス,脳刺激法などが開発されてきた。
これらの療法は患者の負情動を抑えて症状を改善しさせている。
古代から人類を苦しめ続けてきた慢性痛の機序は、こうして次第に明らかになりつつある.
今後の医療の根幹は、ヒトの情動に焦点を当てて再構築されていくと思われる.


以上、負情動と慢性痛の関係を焦点にして述べたが,古皮質は快情動をも発している。快情動の回路網を強化して慢性痛を抑制する研究も進行している.
次項では,快情動と負情動回路網の2項対立と,われわれが希望を抱くことの意義について触れたい.

慢性痛のサイエンス「終章より」

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